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1 記憶たどり。 ★ :2017/10/22(日) 08:23:17.60

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171022-00010003-nishinpc-sctch

むしで遊ぶ子供に対して、大人はしばしば、かわいそうだから逃してやれ、という。
その気持ちは理解できるが、かわいそう、は大人の主観、捕りたい、飼いたい、は
子供の主観。主観の間に優劣はない。

では、子供からむしを救うにはどうしたらよいか。

「痛いよ!」これは効果がある。しかし、うそや出任せがばれると効果がなくなるため、
正しく見極める知識と眼力が必要になる。捕りたい、という子供の学習能力は侮れない。
捕るな、というにはそれ以上の能力が要求される。

「足が取れて痛がってるよ」など感情に訴える手がある。小さい子には効くが、
そのうち、むしに感情などないしバッタは脚を自ら切って逃げると知ると、それ以降、
その大人の発言は重みをなくす。

「逃してやれ」は単なる傲慢

「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、無益でないなら殺生も許される、
と気付かれる。標本用、学習や研究用、害虫だから、など理由があれば、飼ったり*たり
してもよいし、実際、大人はしているじゃないか、となる。大人がしていることを子供にするなと
説得するのは難しい。専門家だから、害虫だから、には根拠がない。

日本では昆虫学の発展を常にアマチュアが支えてきた。子供の頃からむし捕りに興じ、
そのまま趣味人として在野で知見を蓄えてきた経緯がある。その一部が大学などの
研究者になったにすぎない。また、害虫か否かは、そのむしの生態的な地位とその人の
立場で変わる上、そもそも多くの農薬や殺虫剤は無差別に*ので論外となる。

あとは、逃したことによる自己満足くらいか。しかし多くの場合、大人の浅薄さが環境破壊に
子供を加担させる結果を招く。養殖カブトムシを家の近くで逃がすと遺伝子汚染を生じるし、
夜店の金魚や緑亀(アカミミガメ)を近くの川に放生するなどは外来種問題について無知蒙昧
(もうまい)で、あまりに無頓着というものである。

客観的事実の積み上げなしに、感傷的なきれいごとによる「逃してやれ」は単なる傲慢
(ごうまん)である。子供にとって、むしを捕ること、飼うことは、逃がすこと以上に大きな意味を持つ。


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